皆に伝えたいとても大切なこと
こんばんわ、さえです。
皆さんおかえりなさい。
久しぶりの更新となります。
先程までツイキャスをしていたのですが、
そこで話していたとても大切なお話。
ツイキャスを見れない方にも聞いて欲しくて
ブログに書こうと思いました。
私は今「みんなの帰る場所」になる為
活動しています。
帰る場所と言っても色んな役割があります。
人によって帰る場所に求めるものは違ってくると思いますが、私が皆さんにお願いしたいのはコレです。
『救われようとする』
自分を許したり、認めたり、励ましたり、慰めたり、とにかく救われようとして下さい。
よく、自分が救われることを罰当たりな風に思ってる方やずるいと感じてしまっている方を見かけます。
そしてその考えをなんとなく強要してしまう人も。
でもそれでは誰も幸せになれないと思うのです。
帰ってきてくれた時、私は皆さんを心から歓迎し、肯定し、励まし、自分勝手に許します。
ほんの少しだけだとしても、皆さんの苦しみを私が受け取りたいです。
そして、皆さんの心にほんの少しだとしても、余白を与えたいです。
今の世の中を生きるのに、誰もが自分一人を生かすのに精一杯で余裕がありません。
それは誰も悪くありません、そういう社会になっているからです。
でも余裕のない心では、人は中々他人に優しく出来ません。
自分の事にいっぱいいっぱいですから、そんな所に目を向ける事が出来ないのです。
逆に、心に少し余裕がある人はその余裕を「誰かを助ける為」「誰かを幸せにする為」「誰かを救ってあげる為」に使おうとします。
誰かに優しく出来た時、誰かに優しく出来た自分を認めてあげる事が出来るからです。
「ありがとう」という言葉は、本当に強い強い力を持っています。
貴方を暗闇から引き上げてくれる言葉です。
辛い毎日の中、心に余裕を持ちたくてもそう簡単に持てる訳ではありません。
だからこそ、私がいます。
だからこそ、帰る場所があります。
辛かった事聞かせてください、悩みを相談してください、良い事があったら教えて下さい、面白いことがあるなら一緒に面白くなりましょう。
友達や家族や恋人が居なくても、障害を持っていても、病気だったとしても、何も無くても、貴方には私がいます。
帰ってきて、お話することで1mmでもいいので心に余白を作りましょう。
そしてその余白を、本当に小さな事でもいいので「他人に優しくする事」に使いましょう。
それを繰り返していくんです、何回も何回も。
優しさの輪を幸せの輪をちょっとずつ広げてください。
いつの間にか貴方の周りには、笑顔と「ありがとう」という言葉で溢れています。
そして、帰る場所に貴方の努力を知る人が何人も居て貴方は一人じゃなくなります。
貴方が優しくして、その優しさで幸せになった人がまた誰かを優しさで幸せにして世界はやっと表情を変えます。
「幸せは手作り」です。
ちょっとした優しさが貴方の癖になり始めた頃、いつかこう言われるかもしれません。
『あなたに出会えてよかった』
『あなたのおかげで生きていられる』
『本当にありがとう』
至上の喜びを知ってください。
貴方は、素晴らしい人だという事実を再確認してください。
貴方は、自分の力で幸せを作っていく力を持っているんだと自覚してください。
私は貴方が幸せになっていく姿が好きです。
「帰る場所」としてそれを見届けさせてください。協力させてください。
私の「幸せ」に貴方がなって下さい。
どうか、『救われよう』として下さい。
お願いします。
今日も、明日も、これからも
おかえりなさい。
川崎事件
居てもたってもいられないから、書きなぐる。
お願いだから、目を逸らさないで欲しい。
殺人犯が『わかりやすい圧倒的悪』なだけで、責任は彼全てにある訳じゃない。
「殺人犯」は、誰もが最初から「殺人犯」では無い。
そうならざるを得なくなった、成れの果てだ。
もしくは、私達の未来かもしれないんだ。
彼は、4本の刃物を所持していたという。
4本の刃物を、用意する時の彼の心情は、全てが恨みだったのか、誰かへの願望だったのか、今はもう誰も知らない。
もし、私達がもっと前に彼とよく話していたら、あるいは耳を傾けていたら·····?
彼が求めていたものは、何か分からないけど。例えばそれが、世の中への不平不満や過去の辛い経験や、どうしても飲み込めない不安だとしたら·····?
私達がもっと早く気付いていれば、この痛ましい事件は起こらなかったかもしれない。
この事件に限ったことじゃない。
様々な事件の、「絶望した殺人犯」を絶望しきってしまう前に何か手を打てていたら、救われた命は沢山あったはずだ。
失われた命をただ嘆き、1人の殺人犯に全ての悪と責任を押し付ける。
それではいけない。
それではいけないんだよ。
私達のやらなければいけないことは、
この社会を変えることだよ。
殺人犯になってしまう前に、「誰か助けてくれ」と声を上げられる空気を作ること。
どうしようもない闇を抱えてないか、抱えていたならばどうにか少しでもその闇を抜いてあげられないか考えて行動すること。
「守りを徹底して殺させないと宣言する」
「予算を割いて警備を厚くする」
じゃない。
「貴方が殺人犯になる必要は無いんだ」と、
そう何度でもの声に出して教えること。
「分かりやすい悪」をだけに全てを押し付けないで、私たち一人一人の悪を自覚すること。
誰だって甘い蜜だけ吸っていたい。
貴方が甘い蜜だけを吸って、たらい回しにされてしまった苦味が、今誰かの元で、どうしようもなく燻っている。
貴方が、少し苦味を我慢するだけで、救える命が人間がいるかもしれない。
今も私達が甘い蜜を吸っている中、燻った苦味に耐えられず、ナイフを握りしめようとしてる人がいるかもしれない。
これはフィクションじゃない。
ドラマでもアニメでも映画でもない。
どれだけメディアを介して報道されても、SNSで回り回っても。
これは、悲しいくらい現実だ。
それも、どこかの誰かの話ではない。
燻った苦味は、貴方のすぐ側にある。
目を逸らさないで欲しい。
私達が持つべき苦味を。
ここからは私の話。
不謹慎だと、言われるだろう。
私も家族を殺そうと何度も思った事がある。
そして、彼らを殺す事は「救い」だと信じて疑わなかった。
彼らは、こんな地獄のような救いのない世界で生きている。
生きている限り救われることは無い。
ただ彼らは生きてる限り苦しまないといけない。
何故そう言いきれたかというと、私が紛れもなくその1人で、そして私は彼らと同じ境遇にいて、彼らが良く泣いて苦しんで、暴力やギャンブルや薬に堕ちて行くのを見てたからだ。
私は誰よりも家族を愛していた。
愛していたからこそ、殺さなければいけなかった。
「今、私が殺してあげなければ」
それが私にとっての愛で優しさで慈悲だった。
今はもう過去の話しだが、私は狂っていなかった思う。
ああいった状況に追い込まれた人が見つけるある種の「正解」だったんだと思う。
母からも聞いた「家に火をつけてみんな殺そうと思ったことがある」
父からも聞いた「母親をもう殺してやろうと思ったことがある」
それを知っているのは、私達だけという事実も。
この目を逸らされたことで、悪人にされてしまった人達だけが知る事実だ。
私自身も、私の母も、私の父も、私の兄も。
たまたま、誰も殺人犯じゃない。
たまたま、免れた。
そう、たまたま、偶然、運良く。
目を逸らさないで欲しい。
「人生楽しんだもん勝ち」とか
「人生は楽しんだもん勝ち!!!!」
とかいうけど、
私が笑ってる時も誰かが泣いているかもしれないことを忘れないように。
誰かの人生に、私が幸せになる為の時間が使われた事を忘れないように。
そんなの知らないよーーーって見ないフリしちゃえば楽だけど、そんなの出来ないなあ。
私が幸せになる時に、誰かを踏み台にするんじゃなくて、周り全体底上げしたいの!!
少しずつ時間をかけて、、、
踏み台を「人」じゃなくて、「楽しかった思い出」とか「夢」とか綺麗なタイルを重ねて重ねて新しく積み上げて、
そうやって幸せになりたいなあ。
「人生楽しんだもん勝ち」って世界で、
誰かの幸せの為に、まだ人生を楽しめない人は「負け組」なんかじゃないよ。
誰かの幸せを支えている貴方は、
本当に本当に素晴らしいね。
大好きだよ。
おかえり。
あーめん
明日はドキドキデートなの。
今日はやたら部屋が明るいし、時間はゆっくりしか過ぎない。
鏡みて「もっと可愛くなっとけば良かったな〜」ってうんうんする。
いろんな怒りを抱えた私だって恋はする、それもとびっきりのやつ。
私だったらなんでも可愛いってすごく優しい言葉をくれるけど、それでも特別に最高潮に今できる最大限で、隣を歩きたいよねえ。
明日のデートは、つけまにかかってるの!
上手くいきますように!!!!!
普段全然信じないくせにこういう時だけ神頼みしちゃうよーーーーーー!!!!!
神様ーーーーーー!!!!!
アーメン!!!!!!
意義とか意味とか愛とか欲とか憎悪とか。
発作を起こす度、私の中の私を凝縮したようなものが色濃く、現れる。
許せない「そういうもの」への憎悪と、
許したい「誰か」への欲求。
以前ブログに書いた通り、
私は実の母親の自殺を止めることを使命に、これまで命を繋ぎ止めてきた。
というより、それもまた使命だった。
「生かすなら、生きてなければいけない」
当たり前のようで、地獄だ。
どんなに苦しんでも、苦しんでる人を生かしたなら、私も生きなければいけない。
どうだこの死に損ないは!!!
世の中で横暴する
「死にたい奴は勝手に死ぬ」
なんて、勝手極まりない言葉。
私は死にたくても死ねなかった。
勝手に死ねなかった。
お前らが否定する、死ねなかった側の人間だ。
可笑しいか、気持ち悪いか、浅ましいか?
死にたいはずなのに、
それに反するように理性と本能と、命に刷り込まれた「生かすなら生きてなければいけない」に動かされ、生きる為の行動をする私を、気持ち悪いと思ってるのは他でもない私自身だ。
それでも死ねないなら、生きていくしない。
私がどれだけ私の事を気持ち悪いと思っても、お前がそう思う筋合いはない。
死ねなかった私は、必死に生きてきた。
「死ねなかっただけだ」なんて言いながら、
必死に惨めに醜く無様に這いつくばって、
今の今まで生きてきた。
そうやって、必死にそれでも尊く生きてきた私を、貴方を、誰かを。
誰が笑っていいというのか!
そんなのクソ喰らえだふざけんな。
私はそんな世界の為に生きてきたんじゃない。
必死に生きてきた人を笑うような世界の為に、心をすり減らしたんじゃない。
私は死に損ないだ。
死ねなかった側の人間だ。
それでも生きたからには自分の大切なものくらい、自分で大切にしたいんだ。
自分で自分を殺せなかった。
だから、必死に生きてきた奴を笑う奴らなんかに、先に殺されてなんかやらない。
いつか自分で自分を殺すまでは、
絶対に、殺されてなるものか。
貴方もそう。
誰かに殺されてはいけない。
自分の命を抱えてしまったからには、
最期に貴方を殺すのは貴方だ。
私が死ねなかったように、貴方も死ねなかったのなら、いつか貴方が貴方を殺せるまで。
貴方の拠点になりたい。
帰る場所になりたい。
貴方が貴方を殺せるまでの仮住まいで良い。
貴方が私の元へ帰ってきてくれる限り、
私は貴方を傷つけるものから殺そうとするものから、貴方を肯定して守りたい。
共に同じ目的を果たす者として、
貴方以上に貴方を大切にしたい。
だから、その覚悟を持っていつか貴方が貴方を殺せるその日まで。
おかえり。